終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ

ASIN:4087202976

年末年始の一時帰国からカナダに戻ってくるときに、飛行機の中で読んだ本。さっき本棚にあるのを見つけて、そういえばここに書いてなかったことを思い出した。著者は、名古屋サポには説明不要の木村元彦。一連のピクシー関連本を読んだ人も多いだろう。

この本は、ユーゴ空爆後のセルビア・モンテネグロ(2000〜)について語ったもの。単なる分析ではなく、著者が実際に現地に赴いて、そこで起こっていることを伝えてくれている。とても面白かった。

それにしても、旧ユーゴ関連の本を読むといつも民族主義に対して慎重になる。特に、こうして外国に住んでみて、民族や国籍などの自分の意思ではどうにもならない要素が原因で、差別したりされたりする不条理も、より手ざわりのあるものとして感じられる今ではなおさらだ。


印象に残った箇所を二つ。

コソボに足を踏み入れていない学者が「現場に行かずとも分かる」と嘯くのはあまりに傲慢である。なるほど行かずして分別できる事象も存在はするであろうが、それ以上のものが現場には山積している。その人の人生はその人の全てである。スパスパと切り分けられるものではない。また単に反米という視点からコソボ問題を語り、ユーゴ空爆に異を唱えても全く意味はない。空爆の不当性をアルバニア人たちにも説くのならば、そこに現地の人々の肉声や体温、痛みが拾えてなければ何も広がりはないからだ。
p.8

まえがきから。特に、「その人の人生はその人の全てである。スパスパと切り分けられるものではない。」という言葉には、はっとさせられた。

聞きながら、途中からおやと思った。取材には応じてくれているが、いつになく口調がきつい。一通り話し終えてベリツエが私を睨んだ。
「いつもあなたは情報を私たちから獲っていくだけ。今回もそうですか?たまにはあなたから教えてもらうことがあっても悪くはないでしょう」
冷や水を浴びせられた気分だった。被害者の家族を見舞ってはいるが、初戦、私は傍観者だ。記事にする、ネタにするものとして行うその取材は問題解決には程遠い。情報の搾取に過ぎない。
p.71

このあと、筆者はベリツエからコソボ内にあるセルビア人収容所の地図を渡し、これが本当なのか確かめてほしい、という依頼を受ける。彼女のこの台詞は、その依頼への単なる導入だったのかもしれないけども、著者にとってもショックだったろうし、その著者の本を読んでいる自分にとってもショックだった。実際に現地に赴いて精力的に取材をしている人間でさえこのような見方が成り立つのならば、その取材結果をただ座って読んでいるだけの自分は一体何なのか。